稲荷神社について

御祭神
豊受大神(とようけおおかみ)
應神天皇(おうじんてんのう)
春日大神(かすがのおおかみ)
石祠
八幡神社 八幡大神(はちまんじんじゃ はちまんおおかみ)
大鯨(おおくじら)
金刀比羅宮(ことひらぐう)
富士塚
浅間神社(せんげんじんじゃ)
御神徳
古くから疱瘡に霊験があるとされ、1848~54には境内にある小石を頂いて帰る者が市をなしたと伝えられている。その事から病気平癒・厄除の神徳も知られている。その他、商売繁盛・家内安全の守護・産業繁栄・心願成就などの御利益がある。

由緒

御祭神に豊受大神を祀る稲荷神社は浦安市当代島三―十一―一に鎮座しており、その創建は他の二社同様に定かではないが、元禄二年(一六八九年)に(武蔵國小岩村、現在の東京都江戸川区小岩町)の善養寺から移し祀ったものといわれている。神社の記録によると少なくとも大正時代には相殿の神さまとして応神天皇と春日大神をお祀りする神社であったこともわかる。

それ以前には当代島で元村長の高梨氏所有の屋敷神の稲荷さまを氏神としていた。

稲荷神社は明治五年の神社法によって正式な当代島の鎮守とされ、無格社に規定された。

また、社殿が損傷した為、明治四年(一八七一年)四月に改築がされ、明治四十一年(一九〇八年)日本殿と拝殿が再建されたが、昭和十九年十一月二十七日米軍機の爆撃によって破損したため、昭和三十四年一月に再建がなされた。

しかし、以来周辺の環境が著しく変わり、地盤沈下によって拝殿の腐食や境内の樹木の根腐り等の理由により昭和五十八年に大規模な地盛り等の境内整備が行われることとなり、社殿の立替もされたのが昭和五十九年のことであった。

また、一説には稲荷神社の祀祭神は稲蒼魂命だといわれ、元の御名を宇加之御魂神という。この神は字を倉稲、すなわち一切の食物を司るとされ、豊宇気毘売神と同一神だといわれている。さらには豊受大神と称されて外宮の豊受大神宮にも祀られ、五穀最成・飲成五社大明神の筆頭の神で、大己貴命・大田命・大宮姫命・保食命の五柱を総じて五穀の神として穀物豊穣の神として信仰された。

そのほか、稲荷神社は古くから疱瘡に霊験があるというので、嘉永年間には境内の小石を持ち帰るものも多く、市もできたほどであったと伝えられている。

大鯨の石祠
(稲荷神社境内)

大鯨の御社は、碑の左側面に高梨源八、西脇清吉の名が刻まれており、明治八年、当時は現在の船入緑道には船入川が流れていて多くの木造漁船が?がれ、桟橋近くは漁民の社交場ともなっていた。

船入川より江戸川にでて引き潮を利用して櫓を漕いで河口へ当時は水門や護岸提もなく、岸辺に葦が生い茂り春ともなるとヨシキリが啼き、鴎が飛び交い漁師は追い風があれば帆を張って川の流れにゆだねて海へ、貝や魚を採って日々の暮らしの糧を稼ぎながら生活を送っていた。

東京湾に鯨がいたということは現在では思いも及ばないことではあるが、水が澄み、自然環境が好く小魚が多く、鯨の餌が豊富だったのであろう。

河口から海へしばらく向かうと三枚洲(葛西沖)という好漁場があり、漁をしようといつものように日の出前に当代島の高梨源八、西脇清吉の両氏は船に立って漁場の三枚洲に近づいていくと、洲の上に大きな黒い大きな魚が暴れているのを見つけて近寄っていくと、うわさが絶えなかった大鯨が浅瀬の汐溜まりに取り残されている。

そこで両氏は驚きと興奮で体が硬直したものの気を取り直し、大格斗の末に大鯨を捕ることに成功し、意気揚々と当代島へと戻った。

両氏が帰還すると村中が知らせを聞いて大騒ぎとなり、老若男女がこぞって見物に来たそうです。

この大鯨は当時の価格で金弐百円もの高値で売れ、大金を手にした両氏はすっかり有名人になり、どこへ行っても英雄扱いされたそうです。両氏は大鯨捕獲劇のことで仕事も手につかなくなり、このことに終止符を打つために考えた末に年配者の知恵から稲荷神社に大鯨の碑を奉納し、祀ったとのことです。これが大鯨の碑建立の経緯であります。
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